映画「ピンクとグレー」感想

地味にダイアリーから引っ越してみました。

記念すべき裕翔くんの初出演、初主演映画「ピンクとグレー」、ついに先日公開されましたね!もともと原作も好きで、シゲの作品は買いそろえていたので、見られる日が来るのがとても待ち遠しいお仕事でした。
番組、雑誌露出も公開直前は怒涛のスケジュールで追いかけるのがやっとでしたが、ひとつひとつが素敵で、目も頭も心臓も、いくつあっても足りないよ…!といちいち悶絶してました。

公開初日と、少しあけて2回目を見に行って思ったこと。浮かんだことをほぼそのまま書いているので、話があちこちしています。読みづらくてすみません。また原作、映画のネタバレがありますのでこの先はたたみます。

 

 

原作と映画では、りばちゃんの捉え方がずいぶん違うんだなあと思いました。後々パンフレットで監督のコメントを読み、そのズレは意図的なものだったと知ったのですが、初見はだいぶ戸惑いました。

個人的に、原作のりばちゃんとごっちにはそこまでの能力的な差ってなかったんじゃないかなと思っています。ジャンルの違うイケメンふたりというイメージで読んでました。カットモデル経験ありとか、文化祭のステージでバンド演奏とか、さらっと普通の青春体験の一部みたいに書いてるところにイケメンの素地の質の高さすら感じた。他にもそれぞれの魅力は顔のよさ以外に、たくさん描かれていたように思います。

りばちゃんはもともと賢いし、なにかあれば努力もできる。ちょっと生意気な物言いしても、なんか憎めなくて笑っちゃう。大事なときは心から素直なお礼が言えるし、自分の醜さ、弱さをぶちまけられる。音楽、映画、本、自分の感性で好きなものが、たぶんある。毛虫や流星群や誕生会のエピソードはもちろんですが、地の文のみで語られるわずかな部分にもそれらは表されています。
もう転校を繰り返さないために大学付属の中学を受験すると、自分で思いついて決める。そのために塾に通って見事合格する。大学の授業もごっちの代わりに出て、ノート取ってあげる。ごっちの連ドラ出演が決まって、喜びつつもちょっともやもやしちゃって、もう寝るってなったけど、ふたり分のカップをちゃんと片付けてから寝に入るくだりを読んだときは「りばちゃん偉すぎ…」と思った。(自分の生活が自堕落すぎではあるんですが)
原作のりばちゃんにも、劣等感や焦りのなか身動きが取れなくなり、だらだらと時を過ごしてしまうような描写はありますが、細々ともらっている小さな仕事をないがしろにしているような印象は、私は受けませんでした。

りばちゃんは、この時点でこの努力の才を芸能界で発揮する方法がわからなかっただけで、ポテンシャルは高かったんじゃないかなあ。事務所がはじめはふたり平等に仕事を振っていたこと、ごっちの死後、りばちゃんを「イケメン親友」「蠱惑的」とメディアがもてはやしていたこと、時代とともにごっちの存在が薄れていった(とりばちゃんが感じた)ことなどを見ても、ごっちが売れたのはそのときその時代が求めていた枠に彼が上手くはまれたから、というのもある気がします。(もちろん、その後大ブレイクできたのはごっち自身の魅力と努力の才が開花したからこそ)

映画のふたりは、もうスタートから差がついている状態でした。りばちゃんはFが押さえられないのでギターが弾けず、作曲もできません。原作では共作だったファレノプシスは、映画ではごっちの自作曲となりました。幼馴染の女の子サリーとも、成長して思春期になるとうまく話すことができなくなり、苦笑いで口ごもるりばちゃん。対して常に優しく、柔らかくサリーに接するごっち。結果、彼女が用意したバレンタインチョコはごっちの分だけ。休日に遊ぶりばちゃんとごっちを同時にスカウトした大人たちの目線は、ほぼごっちに向いていました。
高校を卒業し、同居を始めたごっちとりばちゃんのもとを訪ねたサリーの「ふたりは大学行かなかったんだ」的な言葉を聞いたとき、わ~りばちゃんの選択肢どんどん塞いでいくな~…と静かに震えました。
音楽、言葉、学業、どのカードも持たないりばちゃんが溜めこんだ気持ちの行き先は、お酒か女のひと。
原作とは別人のようなキャラクター設定に、62分を前に私は衝撃を受けました。どんなにりばちゃんと呼ばれても、りばちゃんみたいな人が必要だという台詞があっても、傾げた首を戻すことができませんでした。私の好きなりばちゃんはそこにいませんでした。
でも、好きな映画はそこにあったのです。
ちょっと何言ってるか分からないと思われるかもしれませんが、私もなんと言っていいのか、いまだ言葉を探しながらこれを打っています。
個人的に、昔から歌でも映画でも芝居でも、青春ものが大好きなんです。登場人物がそれぞれに青いコンプレックスと執着にとらわれてもがく姿だったり、学生たちが放課後、休み時間、限られた自由の中でうだうだと会話し戯れる姿だったりをそっくり再現したようなのを見ると、わーこの無駄っぽさ!今しかできない!この瞬間プライスレス!みたいな感覚で心が埋まってたまらなくなってしまう。なのでごっち宅でAVを見てやばいやばい言い合ってるシーンとか、ロクシタンカフェできゃっきゃ賭けしてるシーンとかすごいツボなんですよ…!原作好きとしてはなんかちょっと違うなあ、と思う部分に青春もの好きとしては惹かれていて、自分でも不思議な状態です。感情が一色じゃない、まさにピンクとグレーを両方抱えたまま混ざらない。特殊な体験の最中にいるなと思います。

前半の劇中劇の青さを後半の現実パートでさりげなく、でもばっさりと「お綺麗」「くだらん」とすだくんに言わせてたのにはなかなかびっくりした。
先日見たタイプライターズという作家同士の対談番組で、シゲがピングレについて「友だちの身体を綺麗にする話を書きたい、と最初に思いついた」というようなことを話していました。りばちゃんが、動かなくなったごっちの身体を拭いてあげたり服や髪を整えてあげる印象的なシーン。映画で描かれることはありませんでしたが、その代わりに監督(りばちゃん)は前半の62分を使ってごっちを綺麗にしてあげたのかな、と思ったりもしました。考えすぎっぽいですが。

しかし裕翔くんはまことに美しかったです。澄んだ歌声も堪能できて嬉しい。メインキャスト3人のうち原作を読破していたのは裕翔くんのみだったようですが、なるほど彼の演じるごっちとりばちゃんにはなんとなく原作の面影があって、小説も台本もすんごく読みこんだのだろうなあと感じました。特にごっちがすごくごっちで、よかった!!
映画の設定にメーターを振り切るため、あえて原作を読まずに臨んだすだくん、夏帆ちゃんの芝居も大変にエネルギッシュで熱が伝わるものであり、心が揺さぶられました。
「ほっといても消える」はずのりばちゃんにわざわざ近づいて、死なばもろともな手段で彼を壊そうとした成瀬と三神。本当に壊したかったのは、芸能界の中で加速と武装を重ねる自分のほうだったんだろうか。
主題歌「Right Now」の歌詞に映画の登場人物を思うと、こみ上げるものがあります。いい曲ですよね。さあ今、今、と何度も叫ぶこの曲は進むことを強要するんじゃなくて、進みたいと思った気持ちに寄り添って書かれているところが好きです。君は誰?あの娘は誰?まず知ること、受け止めること、顔を上げることから始められるのがいい。原作でごっちが「その先へ」という無個性な売れ線曲を出す描写があるからか、そういった詞表現をしないよう隅々まで意識もされてるのかなと思いました。

そういえば文化祭でのコピー曲、映画ではフジとくるりに変わってましたね。この回想は2007~2008年くらいのときのことのようなので、フジ史においてはTEENAGER前後の頃になります。だとすると2009年の出来事はふたりとも経験していることになりますが、それでもごっちはあの道を選ぶんだな…。フィクションの世界の人に言ってもというのはわかっているんですが、それでもなんでだよー、と言いたい。

この裕翔くんがすごい!な話もたくさんあるのですが、辿り着かなかった…。また見に行くと思うので、そのあとにでも書きたいなあと思います。